キャプテン・ジェームズ・クックが小型のバーク帆船エンデヴァー号に乗りノースクイーンズランド(クイーンズランド州北部)の海岸線を北上したのは、1770年7月、彼の最初の航海のときでした。 現在のケアンズがある地域を最初に訪れたヨーロッパ人は、このキャプテン・クックです。 これより170年ほど早くオランダの探検家らがヨーク岬まで到達していたという事実に関して、今でも論争が続いています。 しかし、彼らはヨーク岬の西側へは上陸したかもしれませんが、東海岸側を訪れたという証拠は何もありません。
エンデヴァー号の航海は決して楽なものではありませんでした。 グレートバリアリーフは世界でも有数の困難な海域のひとつです。 エンデヴァー号は長さわずかに30m、これほどの危険な航海にはいかにも小さな船でした。 珊瑚礁の中を進んだエンデヴァー号の船体は大きな損傷を受けました。 乗組員たちはなんとか船を動かし、やっとの思いで傷ついた船を引き上げられる河口の砂浜を見つけました。 この川は後にエンデヴァー川と名付けられ、川岸にできた町はクックタウンとよばれるようになりました。 そのほかこの辺りに付けられた地名には、キャプテン・クックや乗組員たちの疲労や苦難、どことなく暗いムードが反映されています。たとえば、 ケープ・トリビュレーション(試練の岬)、ホープ・アイランド(希望の島)、ウィアリー・ベイ(疲労の湾)などです。
ノースクイーンズランドは高低差が大きく、探検には困難を要します。 先住民アボリジニーは自然環境に適応して生活する知恵を身に付け、この地域全体に広く居住していました。しかし、白人たちにとって、ノースクイーンズランドの自然は過酷で厳しいものでした。 船の修理を進める間、乗組員たちはカンガルーなどの野生動物を捕って食料としました。
ついに修理を終えたエンデヴァー号は、グレートバリアリーフを抜けるための進路を何度も探しまわり、やっとのことでこの海域を抜け出すと、北へ向かいます。そして、パプアニューギニアやジャワ島の沿岸を航海した後で、ようやく故郷イギリスへと帰還しました。 キャプテン・クックは1779年、三度目の、そして最後の探検航海の途中、ハワイ諸島でその生涯を終えました。
隙間なく生い茂る植物、激しいサイクロンや雨季の悪天候、航海が困難な珊瑚礁、病気、そしてワニなどの危険な野生動物の存在に阻まれて、この地域への植民が本格的になるまでにはさらに100年を要しました。
世界のその他の開拓地と同じように、初期の探検家による金の発見が開発に拍車をかけました。 ケアンズ北部の諸地域、特にクックタウンはもともとゴールド・ラッシュを支える前線の町として発展したものです。 ケアンズとスミスフィールド(ケアンズの北にある町)の土台ができたのは1876年以降のことです。
クックタウンの東、ケアンズからおよそ370km北西にあたるパーマー川の岸辺でゴールド・ラッシュが始まったのは、1872年のことでした。 国中に広がったゴールド・ラッシュのニュースに引き寄せられて、一獲千金を狙う何千人もの人々がこの地域にやって来ました。 初期の探検家ジェームズ・マリガンがこの地域で金を発見し、ゴールド・ラッシュを引き起こしたと考えられています。
やがてゴールド・ラッシュは、パーマー川から周辺のミッチェル川、ギルバート川、フィッツロイ川、アインスレイ川へと広がっていきます。 バラックの建ち並ぶ町が一夜にして現れ、鉱夫たちでにぎわいました。多くの町はその後大きく発展して繁栄しましたが、今ではほとんど残っていません。
ガーネット山では銅と錫も発見されました。 最盛期には、中心となる採掘現場では一度に500人の鉱夫が働いていました。
ノースクイーンズランド全域にわたって、白人入植者と先住民アボリジニーの衝突にまつわる話が伝えられています。 恐怖と不信の中で、双方共にたくさんの死者を出しました。 アボリジニーの人々はこの厳しい自然環境の中で、うまく適応する方法をあみ出しながら何千年も生活してきました。 ところが白人入植者が現れると、ほんの何十年かの間に彼らをめぐる環境は大きく変り、何をしてどこへ住み、どこに入ってはいけないか、どうやって生活していくべきかなどを決められてしまいました。 初期の探検家の中には先住民に対して暴力的な人もいたため、アボリジニーたちがこのような武力行使に対して報復を考えるようになったとしても無理の無いことです。 歴史上数ある事例と同じように、多くの残忍な事件が起きました。入植者と先住民の間の亀裂は、いくらか解消されたとはいえ、今日のオーストラリア社会の上にもなお問題を残しています。
ケアンズの街が作られた場所は、もともと深い熱帯雨林とマングローブ林に縁取られた砂地の岸辺でした。 周辺地域への主要な交通経路には、バロン川が使われていました。 このことは、川に沿った街の発展を可能にし、周辺地域、特にアサートン高原へのアクセスの起点にもなり得る条件を備えていました。 ケアンズの北側と西側の地域はすでに開発が始められていたことも、マングローブが生える湿地でしかなかったこの場所に街を建設するきっかけとなりました。 ケアンズの街が作られたおもな理由は、トリニティ湾が風波を防ぐ良い港になり得たことと、南北に比較的平らで周辺の海岸よりは植生のまばらな土地が続いていたことです。
街の名称はクイーンズランド州初代総督を務めたアイルランド系の人物、サー・ウィリアム・ウェリントン・ケアンズにちなんで名付けられました。 名称の選定に際しては、いろいろな意見が出されました。実際、以下のような名称で呼ばれていたこともありました。
ソーントン -ブリズベンの関税徴収官、ウィリアム・ソーントンから
ディクソン -当時の財務大臣の名から
ニューポート -新しい港。もともとあった港町クックタウンの人々はこう呼びました。
トリニティ・ベイ - トリニティ湾。正式な名称を知らない人々は単にこう呼んでいました。
最初に測量が行われたのはエスプラネード通り、1876年10月のことでした。この通りは初め、蒸気船会社の監督官だったフレッド・トラウトン船長にちなんでトラウトン・エスプラネードと名付けられました。 当初の建設計画が失われ、新しい計画ではトラウトンの名前が省かれてしまったために、単にエスプラネードとして知られるようになりました。
今日の近代的なケアンズの町並みを目にすると、建設当初の生活を思い描くことは難しいように思われます。 ひとつだけ確かなことは、気候と野生動物が街の生活をより生彩あるものにしていただろうということです。 始まりはただのテント村にすぎませんでした。最初に立てられたのは船着き場と家畜小屋です。 中国系やマレーシア系の移民が多く暮らしていました。 もともとは金採掘のために流れてきた人々ですが、街の発展と共にその他の職業を始めて定住していきました。
アサートン高原へ労働者や物資を送り木材と錫を運んでくる鉄道線路の起点に選ばれるまでは、ケアンズは特に目立つこともない街でした。 この鉄道は、大量の需要がある南部の諸港へ向けて原料資源を発送するための輸送路として作られましたが、ケアンズはその出発点かつ終点となりました。
この鉄道線路の建設は偉業と呼ぶにふさわしい事業でした。 ケアンズ周辺は急峻で植生の深い尾根に囲まれており、沿岸部と内陸部との交通はそれまでほとんど不可能だったのです。
ゴールド・ラッシュは次第にすたれていき、ノースクイーンズランドの人々はほかに生活の道を探しはじめました。 アサートン高原の肥沃な土地は農業に最適で、ほとんどあらゆる作物が栽培できました。今でも、この地域はオーストラリアの主要な農産地のひとつです。 ケアンズの街の近くにはサトウキビ畑が広がりました。南にある製糖工場へサトウキビを運ぶ交通手段が無かったからです。 平坦な沿岸の土地は、主要なサトウキビ農園として発展しました。 稲など、その他の作物の栽培も試みられました。綿花までも試されましたが、サトウキビほどの商業的な見込みのある作物はありませんでした。 今日でも、ノースクイーンズランド沿岸部のほとんどをサトウキビ畑が占めています。 より涼しい気候のアサートン高原は、酪農、果樹園、野菜栽培に向いていましたが、なかでも盛んだったのはタバコ栽培でした。
ケアンズはさらに発展を続け、しだいに漁業と真珠採取業が大きな産業となって新たな開拓者を引きつけました。 今日ではさまざまな産業が発展を遂げ、この熱帯の街に将来的な可能性を約束しています。
ノースクイーンズランドは第二次世界大戦下で独自の役割を果たしました。アメリカ軍に代表される連合軍がこの地域一帯に軍隊を駐留させ、太平洋艦隊の補給基地としても利用したのです。 シンガポール陥落後、日本軍がオーストラリアに侵攻するのは時間の問題と考えられていました。そうなれば、必然的に孤立したケープヨーク半島を通って進入すると予測されていました。 事実、日本軍は大戦中何度もクイーンズランド州北部を爆撃しています。
大戦が終ると、すべては元どおりに戻りました。 ノースクイーンズランドは発展を続け、また、他地域のオーストラリア人にとって人気の旅行先となりました。
グレートバリアリーフへの注目が観光業の成長に火をつけ、1984年に国際空港がオープンすると大きな観光ブームが訪れて、ケアンズを眠たげな地方の田舎町から現在のにぎやかな都市へと変えました。
すべては、熱帯の鮮やかな色彩に彩られた過去の情景の一部となりました。 ケアンズの街の中、レイク・ストリートとシールズ・ストリートが交差するシティプレイスの一角にある建物の2階に小さな博物館があります。もし、ケアンズを旅してその独特な歴史をもう少し知りたくなったら、訪れてみるとよいでしょう。
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